ギヨーム1世 (アキテーヌ公)
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ギヨーム1世 Guillaume Ier d'Aquitaine | |
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アキテーヌ公 | |
在位 | 893年 - 918年 |
出生 |
875年3月22日 |
死去 |
918年7月6日(43歳没) |
埋葬 | サン=ジュリアン修道院 |
配偶者 | エンゲルベルガ |
子女 | エルマンガルド |
家名 | ギレム家 |
父親 | オーヴェルニュ伯ベルナール2世 |
母親 | エルマンガルド |
ギヨーム1世(Guillaume Ier d'Aquitaine、875年3月22日 - 918年7月6日)は、ギレム家のオーヴェルニュ伯(ギヨーム2世、在位:886年 - 918年)およびアキテーヌ公(在位:893年 - 918年)。多くの修道院を創設し、910年9月11日にはクリュニー修道院を創建した。敬虔公(Le Pieux)といわれる。
生涯
[編集]ギヨーム1世はオーヴェルニュ伯ベルナール2世とその妻エルマンガルドとの間の息子である。898年以前に、ボゾン家のプロヴァンス王ボソの娘エンゲルベルガと結婚した。
オーヴェルニュとリムーザンを相続し、統治した。893年にはエブル・マンゼ(庶子公)に代わりポワトゥーとアキテーヌを征服し、アキテーヌ公を名乗った。その所領はアウストラシアからトゥールーズに及び、オータンやマコネーまで含まれていた。
910年、ギヨームは後に政治的、宗教的に重要な拠点となるベネディクト会のクリュニー修道院を創建した。ギヨーム自身は修道院の運営には関わらず、教皇の管理下に置いた(クリュニー会参照)。当時、ほとんどの修道院が個人所有であり、修道院長や役員の任命権をその一族や個人が持っていた中で、このことは特に目立っていた。ただしギヨームもクリュニー初代修道院長ベルノーを推挙している。
ギヨームが独立してアキテーヌを統治していた証拠として、ブリウドで彼自身の名で鋳造されたデニール貨幣が発見されている[1]。ギヨームはサン=ジュリアン修道院に埋葬された。ギヨームには息子がおらず、姉妹アデリンダの息子ギヨーム2世が後継者となった。
子女
[編集]プロヴァンス王ボソの娘エンゲルベルガとの間に1女がいる。
脚注
[編集]- ^ Rouche, p 428.
参考文献
[編集]- Nouvelle Biographie Générale. Paris, 1859.
- Rouche, Michel. "Private life conquers state and society," in A History of Private Life, Vol. I, Paul Veyne, ed. Harvard University Press, 1987. ISBN 0-674-39974-9
関連項目
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